2010年9月9日木曜日

教育のベストプラクティスを考える

■教育勅語(現代語訳)

私が思うには、わが祖・神武天皇をはじめとする歴代の天皇がこの国を建てられ、お治めになってこられたご偉業は宏大で、遼遠であり、そこでお示しになられたひたすら国民の
幸せを願い祈られる徳は実に深く、厚いものでありました。
それを受けて、国民は天皇に身を持って真心を尽くし、祖先と親を大切にし、国民すべてが皆、心を一つにしてこの国の比類なき美風をつくり上げてきました。
これはわが国柄のすぐれて美しいところであり、教育が基づくべきところも、実はここに
あると思います。

国民の皆さん、このような教育の原点を踏まえて、両親には孝養を尽くし、兄弟姉妹は
仲良くし、夫婦は心を合わせて仲睦まじくし、友人とは信じ合える関係となり、さらに
自己に対しては慎ましやかな態度と謙虚な心構えを維持し、多くの人々に対しては広い
愛の心をもとうではありませんか。

また、学校では知識を学び、職場では仕事に関わる技術・技法を習得し、人格的にすぐれた人間となり、さらにそれに留まらず一歩進んで、公共の利益を増進し、社会のためになすべき務めを果たし、いつも国家秩序の根本である憲法と法律を遵守し、その上で国家危急の際には勇気を奮って公のために行動し、いつまでも永遠に継承されて行くべきこの日本国を守り、支えて行こうではありませんか。

このように実践することは、皆さんのような今ここに生きる忠実で善良な国民だけのためになされることではなく、皆さんの祖先が昔から守り伝えてきた日本人の美風をはっきりと世に表すことでもあります。

ここに示してきた事柄は、わが皇室の祖先が守り伝えてきたお訓(さと)しでもあり、われわれ皇室も国民もともどもに従い、守るべきものであります。これは昔も今も変わるものでなく、また外国においても充分に通用可能なものであります。私は皆さんと一緒になってこの大切な人生の指針を常に心に抱いて守り、そこで実現された徳が全国民にあまねく
行き渡り、それが一つになることを切に願います。
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  • 靖国神社境内の売店で、玉音放送カセット、軍人勅諭、教育勅語を売っている。
  • 教育勅語、今も使える普遍的なことしか書いてないのに、何故廃止されてしまったのか。これは復活させてもいいと思いました。
  • 人間の学習曲線はある瞬間から驚異的に進歩して、各駅停車から特急列車に変わる。
  • セミナーに参加して一度だけ話を聞くよりも、セミナーを収録したテープを何度も何度も聴くことの方がプラスになる。寝る前にヘッドホンで聞きながら寝ると睡眠学習になる。
  • 暗記できていないことは自分のものになっていない。
  • 得た情報は、それが活用される状況に入って初めて知識となる。
  • 他人の言葉でなく、本人がその内容を語っているものを選ぶ方が学習効果は高い。本人に会えないのであれば、本人の動画。動画がダメなら、本人の音声。
  • 人間の脳は同時になんでもできる。慣れの問題であり、脳はいくらでも調節できる。たくさんのことを同時にやるということは、シリアルボトルネックを外す訓練。
  • 「何をやっても自由だが、結果は自己責任」という教育が一番。
  • 親は子どもに常に「なんでそうするの?」と聞かなきゃいけない。何をやっても全部説明させること。説明原理は、認識している現象空間の一つ上の抽象度の思考を維持することになる。そして、ちょいキツイくらいの負荷をかけ続けること。
  • 「卑怯を憎む心」をきちんと育てないといけない。法律のどこを見たって「卑怯なことはいけない」とは書いていないが、だからこそ重要。「万引きは法律違反だからしない」は最低。法律に禁止されていないことは何でもするようになる。万引きしたら「親を泣かせる」「先祖の顔に泥を塗る」。家族の絆が「卑怯を憎む心」を育て、強化し、実践させる力となる。
  • 失敗ばかりしているから駄目な子供なのではない。親が駄目だと決めつけるから、失敗を重ねるようになるのだ。
  • 軍人の修養というのは困苦や飢渇に耐えるということであり、この修養がない軍人は、たとえその技術や知識が優秀であってもなんの役にも立たない。
  • 教科書というものは、人間が作るもので、ところがいったんこれが採用されれば一つの権威になり、そのあとの代々の教官はこれに準拠してそれを踏襲するだけになります。いま教科書がないために教官たちは頭脳の限りを尽くして教えているわけであります。すなわち教官の能力如何が学生に影響するために、勢い教官は懸命に研究せねばならぬということになり、このため学生も大いに啓発されてゆくという形をとっております。まして戦術の分野にあっては教科書は不要であり、それどころかそのために弊害も多いと思います。
  • 何も考えずに行動に移しているということが、体得している証拠。
  • なぜ学校での国語はビジネス文書スキル、早く効率的に伝えるスキルを教えないのか。
  • 人を育てるには、何もしないこと。ただ、信じてあげるだけで良い。
  • 自分がどういう強さで、どんな風に相手に接するかは、相手に伝わる。「困った人だなー」で接していると、全部うまくいかない。
  • 成長は、「どれだけ受け入れられるか」。
  • 「学生時代に勉強しといて良かった~」って輝いてる人を見てれば自然と勉強する。頑張ってもなりたくない人にしかなれないなら、普通は頑張らない。
  • 引く手あまたで、慕われているコンサルタントほど、目の前の問題ではなく、目に見えない「人間の成長」に焦点を合わせる。
  • 流しそうめんや、泥合戦、宝石探しみたいなことを通して、集団活動を学ばせる。宝石探しは自分で見つける、獲得することの楽しさを教えてあげたい。見つけたもん勝ちっていう原則とか、自分のものを分けてあげることとかも大事。
  • 相手を自分以上に育てること。人づくりとは、自分よりも優秀な人をつくること。
  • 教育するからには、まず目指すゴールは「自分を超えてもらうこと」。世代の継続という意味でも、自分を100として90にしか育てられないのではだんだん弱ってしまう。超えてもらい、超えさせてもらう。その切磋琢磨がお互いの成長となる。
  • 国も企業も家庭も、大きな組織も小さな組織もその構成要素は結局は人。人材育成こそが、全てのレベルを上げていく特効薬になる。だからこそ、自分はどう成長していきたいかも大事だけど、他の人をどう育てたいかも自分の大きなテーマの1つになっている。
  • 優れた教育者は必ず激励者でなければならない。

■教育の段階

  • 教育には、段階がある。まずは子守、そして子育て、次に集団活動、そして就学。
  • それぞれの段階で必要なことをやるべきで、最後の就学を目指して最初から取り組むのは少しおかしい。
  • 教育は、全ての世代に対して行うべき。一国の国民の道徳心は、人生の夜明けにいる人、つまりは子どもと、人生の黄昏にいる人、つまり高齢者をどう扱っているかで判断できると言われている。
  • 人間救済の情熱はこれを大別する時、結局、政治と教育という二つの現れ方をすると言ってよいでしょう。すなわち政治は外を正すことによって、内をも正そうとするものであり、教育はこれに反して、内を正すことによってついには外をも正そうとするものです。したがってその現れる方向こそ違え、政治と教育とは、本来不可分のものでなくてはならぬはず。
  • われわれの学問の目的は、「国家のためどれだけ真にお役に立つ人間になれるか」ということ。どれほど深く、またどれほど永く―。人間も自分の肉体の死後、なお多少でも国家のお役に立つことができたら、まずは人間と生まれてきた本懐というものでしょう。
  • 人間の知恵というものは、自分で自分の問題に気づいて、自らこれを解決するところにある。教育とは、そういう知恵を身に付けた人間をつくること。
  • 一面からは、職業に貴賎はないとも言えましょう。しかしながらそれは、職業を国家組織の全体の上の方からみる見方であって、一たび差別の上から見たならば、教育に従事することと、カフェとかダンスホールなどを営むこととは、そこに重大なひらきがあると言えましょう。
  • 教育は国家的な大業であり、次の時代の国家の運命を支配する努力だ。
  • アルゼンチンでは若年層を担当する指導者こそ、多くの引き出しを持った優秀なコーチであるべきだと考えられています。というのも、若い子は安い値段で契約できる。安く買った原石を将来、高く売るためには、素材が柔軟なうちに才能を引き出さなければなりません。

■子どもの教育

  • <子供の権利条約>によると、子供に対する精神的虐待とは次のように規定されている。
  • 言葉による暴力(大声で怒鳴りつけたり、心を傷つけるようなことを言う)。
  • サディスティックな態度と、子供を過小評価する態度(乱暴な態度をとったり、自分はダメな人間だと子供に思わせる)。
  • 愛情の拒否(子供を愛さない)。
  • 子供の年齢から考えて不釣合いな要求、あるいは過大な要求(まだ小さいのに無理なことをさせようとする)。
  • 教育における矛盾した、あるいは不可能な指示や命令(矛盾したことを教えたり、できないことを命令したりする)。
  • 子ども心にも特に印象に残る話というのは、やはりその人の人生にとって、人生全体を通じての深い意味を持っているものなのだろう。子どもの頃に知って記憶している話が、現在の自分の職業の本質と密接に関わっていることに気づかれる人は、案外多いのではなかろうか。
  • 「歴史と他人は変えられない?」そんなわけない。それを認めてるってことは、そんな大人になってるってこと。子供は仕事の中身を見てるのではなく、仕事してる人を見てる。起きた出来事ではなく、関わっている人を見てる。「この先生の言うことなら聞く」というのであれば、問題は何を言うかでなく、誰が言うか。
  • 一般論として基本四原則の徹底を言うのは、わが子に漠然と「勉強しなさい」と言うのと同じです。勉強しないよりした方がいいということは、子供にもわかっている。ただ、何をどう勉強したらいいかわからないために、楽な方を選んで、テレビゲームなどに熱中してしまう。保護者の役割、あるいは有効な手段としては、子供にどういうことに興味を持たせ、それをどういう風に実行させていけるかがポイントとなる。
  • 子供には、「自分のやりたいことを貫け」「自分の考えを優先しろ」というほうが彼らのためになる。なぜなら、子供の方が時代の息吹に敏感であり、子供が感じている世界の方が正しいから。今の時代に大事なことは、「上を見ないで下を見る」こと。
  • 生まれた赤ん坊を一人ぼっちで部屋に寝かせ、乳だけは十分与えるが一度も抱かず、一言の言葉もかけずにおくと、赤ん坊はやがて衰弱死してしまった。愛情がきちんと注がれなければ、子どもは正常に育たない。
  • 子どもを虐待する母親によく見られる傾向なんだが、子どもに対して、愛していると口にしながらベタベタ可愛がったかと思えば、急に怒り出して暴力を振るう。そしてまたすぐに後悔しては、抱きしめて愛しているという。「私だってほんとはこんなことしたくないのよ!お前のためを思えばこそやってるのよ!お前を愛してるから、いい子にしてやりたいから、だから仕方なくこうするのよ!」そのせいで、子どもは暴力は、愛情を示す手段の一つだと間違って学習してしまう。そうなった子どもは、自分を愛してくれる人は自分を攻撃するという考えが、頭にしみついてしまっている。ニコニコしていても今に怒りだして、ぶったりつねったりするんじゃないか。その不安が風船のようにふくらんで割れる寸前までいくと、子どもの心はそれを抱えておくことができなくなって、自分で風船を割ってしまう。相手を挑発してわざわざ攻撃を引き出すことによって、自分の抱いている恐怖を現実のものにしてしまおうとする。現実にさえなってしまえば、もう不安でいる必要はなくなるから。うっかり挑発にのって怒鳴ったり叩いたりすれば、きみの負けだ。
  • もし自分に今、誇りを持っているとはっきり言える何かがあるとすれば、それは、あの父と母の間に生まれ、彼らに育てられたこと。ただそれだけだ。
  • 子どもは扱うものじゃない。向き合うものだ。
  • 子どもを育てるのは、大勢の大人の手が必要になる。できるだけたくさんの人々から影響を受けた方が、物事を広い目で見られる人間になるから。しかしもっといいのは、大勢の子どもの中で育つこと。大人が教える何倍ものことを、彼らは友人から教わる。
  • 「父は子を甘やかす。子は父に甘える。親から教わったことが、血肉になどなるものか。親のいねぇ奴ほどものはきちんと覚える。」
  • 0-6歳までの間に何人に会えるか、若い女性だけに会ってるんじゃなくて、いろんな人に会うべきなんだろう。
  • 子どもの頃、母方のおばあちゃんからよく言われた。お前は運のいい子だ。それを何度も何度も言われ続けた。言われ続けると、それが肉体化する。おかげでなにか新しいことをはじめるときに、何の根拠もないのに、そのうちなんとかなると思ってしまう癖がついた。
  • 日本の親は「人に迷惑をかけちゃダメ」と教えますが、インドでは、「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさいね」と教えるそうな。その方が良さそうな気も。
  • 100人で100km歩くということは並大抵のことではない。その冒険に子どもたちを信頼して出してくれた親たちを、僕はほめたい。とうてい歩けないだろうと思っても、あえて挑戦させる。落伍したら迷惑かけるけれども、よろしくと。子どもたちは期待に応える。去年やらなかったことで、今年やったことが一つある。それは、親たちに万難を排して子どもたちを浄土ヶ浜まで迎えに来なさい、とお願いしたことです。
  • あなたの息子が、娘が、100km歩いてヨレヨレになって砂浜に足を取られながら歩いてきたとき、その姿を絶対に見つめなさい。そして、抱きしめて泣いたとき、本当に子どもの存在感というものを抱きとれる親になると思うよ。
  • 僕らは、そこに弱い人がいれば、優しくなれる。強い人の強さっていうのは、力が強いとかなんとかということではない。強い人の強さというのは、弱い人を守るために強いんです。あるものでは弱い人も、あるものでは強い。みんなそういう力を持っている。
  • もしパーティーの中に1人でも足が弱い小さな子がいたり、生まれて初めて岩手山に登る子がいたなら、僕たちはどんなに足が強いからといって絶対にその子を置いて先には行かない。その子を中心にして、その子の足どりでゆっくり歩く。その子が疲れてきたら手を引いてやる。その子がしゃがみこんだら荷物を担いでやる。その子がもうどうにもならなくなったら背負って歩いてやる。そして、その子を一緒に頂上に立たせて、一番高い所に立たせて、万歳を叫ぶ、やったねって。
  • 大事なのは、その小さな子が疲れたときに誰から手を出してやるかってことだ。絶対に強いやつから手を出す。強いやつほど、元気なやつほど、荷物を担いでやったり、その子をおんぶしてやったりする。弱いものがいるときに、僕たちは強いものの強さというのが弱いものを助けるために強いんだっていうことが分かるんだ。
  • 誰かが失敗したら誰かが助ける。子供たちには最高のお手本だ。喜んでいる息子に言ったんだ。「勝つことよりも、あれだけの人たちが一生懸命に力を合わせて頑張った、そっちが大事なんだ。分かるか?」と。いずれ分かる日が来ると信じている。
  • 人類最大の病気は子どもへの愛の欠如である。
  • とはいえ、親のさせたいことと子供のしたいことはいつも違ってていいと思います。親にしてみりゃ苦い経験して「自分と同じ目に合わせたくない」と思って言ってることでも、子供からしたら「興味があるからやってみたい」と思うかもしれないし。言うこと聞かないから叱るとか、よっぽど周りに迷惑かけるようなことじゃないならおかしいと思う。そいつの人生だから、助言はされても自分で選んでいくべきだと思います。
  • あと、子供のときのトラウマってやっぱ大きいなと思います。大人になってもかな。そいつを理解してあげることは必要と思うけど、その人の空気で察することってなかなかできないし、払拭することなんてそれこそホントに難しいと思うし。相手へのリスペクトや思いやりに欠ける行動がそうなることもあるんで、気をつけないとですね。
  • 貧困に共通するたったひとつの希望は子供の教育。「幽霊教師」を筆頭に、その希望さえも裏切る教育制度の汚職。撤収した税金を制度的に山分けする税務署。金さえあれば悪を正にし、告訴文献消滅など朝飯前の司法機関。賄賂なしでは動かない警察。法的に自由裁量の権限を拡大しては収入源とし、民間企業や一般市民の経済活動を妨げる国家公務員。なきたいほどひどい話は尽きなかった。
  • 社会を改善するためには、小さいこどものうちに世の中には色んな人がいて、みんなでこの社会と世界を作っていることを頭に叩き込まないといけない。
  • 子どもは親の遺伝子を受け継いでいるんだから、親以上に頭が良いなんてことはないですよね。
▼子どもに何を教えるのか
  • ふざけるな。何が傷つけたくないだ。あんたは何が悪いかわかってない。なぜ杉野は青柳さんを刺した後、自首しなかったと思う?それはあんたが間違ったことを教えたからだ。過ちを犯しても、ごまかせば何とかなる―三年前、あんたはあの三人にそう教えたんだ。だから杉野は同じことを繰り返した。同じ過ちを繰り返した。青柳さんは、あんたに間違った教育を施された息子に、正しいことを教えようとしたんだ。それがわからないなら、教師なんか辞めろ。あんたに人を教育する資格なんてない。

■学校教育

  • 学校だから、学力をつけることは大きな目標。しかしこの学力の中には、単に点を取るだけでなく人間性の向上も含まれている。人間力を育てるということも必要。
  • 学校給食は、好き嫌いを解決する授業。
  • 親が教師に「あなたはこの子を知らない」と言ったとする。そりゃそうだ。でもその親が全てを理解できてるかは疑問だ。
  • 学校の成績というようなものは、その人の実力を、そのまま示すものではないとも言えましょう。しかしその人の忠実さ、その人の努力、さらに申せば、その人がいかほどまで、自分のなすべき当面の仕事をなし得る人間か否かということは、かなりな程度まで、これを示すと言ってよいようです。
  • 学校の成績というものは世間でふつうに考えているように、必ずしもその人の素質を確実に窺い得るものとは思いません。それよりもむしろ、その人の素質と努力との相乗積を示すと考えた方がよかろうと思います。
  • 現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ちあがり、歩くなと言っても歩きださずにはいないものです。食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです。
  • よい先生にしてえらい先生。えらい先生にしてよい先生。これが教育者としての理想。
  • 諸君は近く40人、50人という大勢の児童を教え導く重責につくわけですが、しかもそれは内面から言えば、諸君がそのように教職につくということ自体が、実は改めて深く切実に自ら学び、自ら求めざるを得ない責任の位置につくことであります。しかるに、もし諸君らにしてこの根本の一点に気づかず、もう自分たちは学校を卒業したんだから、もはや学ぶ必要なんかなくて、ただ教えていればそれですむとでも考えたとしたら、お気の毒ながら諸君は卒業と同時に、すでに教育者たる資格を失うわけであります。
  • いやしくも教師たる以上、通り一遍の紋切型な授業ではなく、その日その日に、自己の感得した所を中心として、常に生命の溢れた授業を為さむと心掛くべきなり。
  • 生徒の母親がこう言った。学校なんてつまらないと登校拒否していた1人息子が、今は朝ごはんを食べるのも忘れて走り出ていく。夢のようだ、と。
  • スリランカの辺鄙な村では、もうひと月も待っているのと堪えきれずに泣き出した小学一年生の教室で、じゃあ今日だけでもと臨時英語教師になりすましたこともあった。それを「変事」と聞いて飛んできた、土地の政治家の慌てた顔に、堪忍袋の緒が切れた。明日も来てとすがりつく子どもたちの前で、私腹を肥やすより国の将来を思え、君はそれでも政治家か、人の親か、と激怒した。「先生ありがとう、もういいから」と、一生懸命なだめてくれたあの子たちの澄んだ瞳を忘れることなどできやしない。
  • 意欲や態度を点数化しようとすれば、先生が作った枠組みからはみ出る子を排除する結果になるのでは。
  • 国の思惑通りの教育しか行われていなかったとしたら、彼らは自由に将来を考える期間を短縮され、人生を自ら切り開く選択肢をそれだけ奪われていたのではないか。
  • 企業の論理が、猛烈な勢いで小中学校の教育現場に注入されていく。それは学校の閉鎖性を打破したり生徒の社会性を高める効用も期待できる一方、やり方次第で未熟な子どもを企業社会の価値観に染め上げる "洗脳"に通じかねない危険が否めない。
  • 「できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。100人に1人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」
  • 劣っていると判断された子どもは、積極的に無知に"育てる"。このような考え方がコンセンサスになっている。
  • 鷹山は、閉鎖されていた藩校を再興し、興譲館と名づけました。「謙譲の徳を振興する所」の意味で、鷹山が心に重んじていた徳をよく言い表している名前でした。創立以来百年近くの間、米沢の藩校は全国のモデルになっていました。現在もなお、昔の名前のまま存続しています。おそらく国内ではこの種の最古の学校でありましょう。
  • なんとなくわかってきたのは、どこに月が見えるかがわからず、具体的な指示ができない先生がかなりいることである。はっきりとは知らないが、いまは小学校の4年生くらいのときに「月の観察」のカリキュラムがあるらしい。三日月から半月に、そして満月にと、日を追って月が満ちていく状況を理解すること、また時間の経過とともに月が東から西へ移動するのを知ることが目標になっている。指導要領にしたがって、先生は児童に「月を見なさい」と指示はする。しかし、それ以上はどのように指導したらいいのかわからない。どうもそういう状況らしい。
  • いくつかの高校の先生たちが話し合って「しし座流星群全国高校生同時観測会」という企画を立てた。最近は生徒の「理科離れ」がいわれ、担当教師たちは、日本の理科教育の将来に大きな危機感を持っている。その原因の一部に、生徒たちに自然に触れる機会が少なく、自然現象の不思議さ、力強さ、美しさを知るチャンスがあまりにも少ないことが挙げられる。このような流星群出現のとき、ふだん天文学にまったく興味を持たないような生徒にもできるだけ流れ星を見てもらい、直接自然に触れる感動を味わってもらいたい。もしそれが、理科に対する目を開くきっかけになってくれるようなことがあればそれに越したことはない。この企画の背景には、こうした教員たちの切なる期待があった。計画段階では私も意見を述べ、最終的には、国立天文台もこの計画を後援した。
  • 生徒、学生に楽をさせることで何が生まれるのか。「刻苦勉励」の言葉は死語になったといわれる。老人の繰り言かもしれないが、刻苦勉励をせず楽をすることを考えていては、役立つ学問が身につくはずがない。負担を軽くしよう、学生を楽にしようという形で進んできた最近の教育制度改革は、ひとことでいえば失敗であったのではないか。

■親の教育

  • お母さんを育てるのは、赤ちゃんです。
  • 「うちの子は本番に弱く実力が発揮できないので大学は推薦で」などと言う親がいる。この先の人生は本番の連続だ。一体いつまで推薦があると思っているのか。そして、そんなことを親が勝手に決めるな。
  • 黄色信号でUターンさせてしまう親がいる。転ばぬ先の杖が張り巡らされて、一歩も動けなくなってる。
  • 親は絶対にドリームキラーにならないこと。常にゴールを作らせること。「何をやりたいの?」「どうなりたいの?」とゴールを作って、そして今、自分がしていることとゴールの関わり合いを語らせる。親は夢を維持して高くして、どんどん褒めまくれば、同じ知識の空間でも、そっちの方がはるかに知識は上がる。
  • 本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけない。大抵の場合、説明は不要。後になって別の新しい価値観を見出すかもしれないが、初めに何かの基準を与えるほうが、子どもとしては動きやすい。
  • 昔は運動会とか遠足とか、何か試合に行くという日には、母親がいつもお弁当を作ってくれていた。試合に負けても勝っても「俺の好きな卵焼き、焼いてくれたかな」などと思いながら、胸を躍らせながら、お弁当を広げたもの。ところが近ごろは子供をコンビニに連れていき、お金を与えて好きなものを買わせている。そうなると、父親への思いも母親への思いも、薄っぺらになりがち。ひどい子になると、親は「金を渡してくれる財布」くらいにしか考えてない。親子の絆が大変弱くなっている。
  • 私たちはしばしば「食べるのはいい子、食べないのは悪い子」といった単純で一方的な考えを押し付ける。「ほら、すごく身体にいいのよ」とか、「アフリカでは子供が食べられなくて毎日死んでいるのよ」とモラルやエコロジーまでさかんに持ち込む。古典的なものでは「これを食べないと、ジェラートはなしですからね」と脅迫までする。
  • これでは、食卓は子供にとって拷問の場と化してしまう。こうした大人たちは、基本的に食が悦びの場であることを忘れてしまっている。
  • 親や学校が身体にいいものを食べさせようと躍起になっても、今の子供たちの側に偏食や工業生産品を好む傾向があって、なかなか難しい。
  • 何に問題があるかというと、子供以上に大人から教育しなければダメ。子供たちの偏食傾向には、様々な要因が複雑に絡み合っている。たとえば、家庭での悪しき食習慣、親たちが出来合いのものやインスタント食品に頼って手料理をしなくなってきていること、食べ物についての正しい情報の欠落。学校という場での食教育における栄養学、統計学への偏りも大きな問題だが、もっと深刻なのは、テレビや雑誌を通じて嵐のように子供たちの上に降り注ぐ工業製品の広告。そして、近ごろの子供に見られる集団行動を好む傾向なんかにもあるんじゃないか。大人の意識が変わらなければ話にならない。
  • 今の大人たちは、子どもたちの顔色を伺いすぎてはいやせんだろうか。子どもたちに対して示せるものは、子どもの遊びの相手をしてあげることだけなんだろうか。大事なことは、子どもたちにどう見られているかということである。オロオロしている大人世代を、子どもたちは果たして尊敬しているだろうか。信頼しているだろうか。
  • これから日本は大混乱に陥る。一寸先は闇のジャングルの中で生きることのできる人間を育てないといけない。その訓練を世間知らずの教師に任せていたら、生贄になるための人間を育てるようなもので、世の中に出たら即死すること間違いなしだ。社会経験が浅い母親にもこれはできない。塾の教師はこれを知っているが、金にならないので教えない。会社の厳しさ、マーケットの激しさといった「ジャングルのルール」を教えられるのは父親だけ。
  • エクセルの使い方やプレゼンの方法、また100万円をどこまで増やせるか競争する、といったことでもいい。
  • 国土の大半が水没する大洪水に襲われても、危機管理体制を確立・駆使して死者を最小限にくい止めるリーダーシップは見事。洪水の後に必ず繰り返してきた飢饉の歴史さえをも昔話にしてしまった。国づくりは人づくり、特に母親の人づくりをと、二人とも女子教育に熱心で、世界をアッと驚かせる成果をあげた指導者でもある。
  • 良母は万の教師に勝る
  • 「大人の言う事聞きなさい」。でも実際は世間の犯罪の9割は大人が犯してる。大人は別に頭がいいわけじゃない。長く生きてるから経験が豊かなだけ。大人の経験で培われたマニュアルには、正しいことも書いてあるし、 もちろん誤りもある。
  • 子育ての本に、こう泣いたらこう対処しろとその通りやってみても、泣きやまなかったから思わず叩いた。それは一億人赤ん坊がいたら一億人全部違います。子育てにマニュアルがあると勘違いしちゃってます。 そんなものはこの世の中にない。マニュアルからずれたことを子どもがやったら親が臨機応変に対応できないなんて、 どっちが親かわからない。
  • 近頃、子どもに個性がなくなっているとよく言われますが、個性を引き出してあげようという大人の努力も足りないように思います。例えば、屋上から俯瞰で見た同じ方向の景色を漠然と写生させるより、「ここから見えるひとつの建物だけを描いてみて」と言ってみる。たったそれだけでも、個性的な作品が生まれるでしょうし、そういうことの積み重ねによって個性が育っていくような気がしています。
  • 「過保護は人を堕落させ、自力再生の道を断つ」

■社会教育について

  • 学校には学校の教科書がある。でも社会に出たら、もっと大きな、もっと分厚い、もっと必要な教科書があるから大丈夫。学校の教科書は、ある程度記憶力さえあれば、いい学校に行ける。社会にある教科書は、自分に幸せを教えてくれる 大切なもん。だから社会の教科書のほうを大切にせい。
  • けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫は有り余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精を出すので、収穫は求めなくても訪れる。
  • どこかの学校を出ているなんて話は、どうでもいい。自分が尊敬できる師匠がいて、その人に付いて学ぶ。本来、教育があるべき姿だと思うなぁ。
  • 太平洋戦争の後、資源の乏しい日本は科学で立国するしかないと、国も、文部省も、総力を挙げて科学的視野に立つ教育を推進してきたはずである。それがどうしたことか、天文台の質問電話を通じて透けて見えるものは、どちらかというとそれとは裏腹で、天文学よりも星占いを好み、オカルト的なノストラダムスの予言に重きをおいて、異星人が空飛ぶ円盤に乗ってやってくることは信じても、科学的説明には耳を傾けることの少ない人々である。特に、若い人によりその種の考えのはびこっていることが、いっそう気になる。
  • 「新卒は即戦力にならない」は昔の話。鍛え抜かれた学生があなたの会社にも?イマドキ大学生のキャリア教育

■療育について

▼療育のアイデア
  • 森づくりなら、療育としてはハードル低いんじゃないかな。
▼知的障害の天才性
  • 知的障害は脳のトラブルによって起こる。しかし、脳というのは不思議なもので、ある部分に障害があると、それを補おうとして、他の部分が活性化する。だから知的障害児は、特殊な脳を持っている。この極めて個性的な脳の能力を伸ばし、社会性さえ身につけることができれば、彼らがエジソンやアインシュタインに匹敵するような人間になることは十分可能。
  • 発達障害を持ちながら、あるいは発達障害だったからこそ、才能を発揮し天才的な業績をあげた偉人たちは、たくさん知られている。
    • エジソン
    • アインシュタイン
    • レオナルド・ダ・ヴィンチ
    • ハンス・クリスティアン・アンデルセン
    • アレクサンダー・グラハム・ベル
    • ウォルト・ディズニー
  • 知的障害児のほとんどは、右脳が優位な状態にある。左脳は論理・理性を司り、右脳はイメージや感性を司っている、と言われている。右脳の情報処理能力は左脳をはるかに上回っている。極めて精巧で鋭敏な脳を、知的障害児は持っている。こうした脳に対して、「ゆっくり少しずつ情報を与える」という指導方法は、極めて効率が悪い。ストレスを感じてしまう。しかしカードを素早くめくり、高速で情報入力すると、知的障害を持った子供はみな普段見られない集中力を発揮する。ポイントは子供が集中するスピードでカードをめくること。
  • その速さは子供によってみんな違う。1人ひとりの子供に合わせたスピードを見つけて、その速さで行わなければならない。だから、知的障害児の改善指導において、集団での指導には無理がある。基本は個人指導が望ましい。

■日本人の教育

  • 日本の歴史を知らない若者のように知的レベルがかなり高くても、教育によっては無知な人もいる。
  • 内容がないのに英語だけは上手いという人間は日本のイメージを傷つけ、深い内容を持ちながら英語は話せないという大勢の日本人を、無邪気ながら冒涜している。
  • 少なくとも1つの言語で10割の力がないと、人間としてのまともな思考ができない。言語と思考はほとんど同じもの。日本が母国語だけで済んでいるというのは、植民地にならなかったことの証で、むしろ名誉なこと。
  • 外国へ行って勉強する場合無理をしてはいけない。外国語で何か新しいことを学ぶことは至難のことである。講義を聞いて判るのは自分がすでにマスターしていること位であろう。むしろ外国人と付き合う機会があるであろうから、できるだけ友達をつくるよう心掛けるべきである。
  • 洗脳といわれるか、教育といわれるかはもはや政治的な論理でしかなく、国家が決めたことは洗脳といわないだけ。
  • 内村鑑三は東洋思想の美点として、経済と道徳を分けない考え方を説いた。富は常に徳の結果であり、両者は木と実と同様の相互関係なのだ。日本主義の父と言われる渋沢栄一は「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができない。道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は真の商才ではないと喝破し、日本経済の礎を築くにいたった。
  • 東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との関係と同じであるとみます。木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。民を愛するならば、富は当然もたらされるでしょう。ゆえに賢者は木を考えて実を得る。小人は実を考えて実を得ない。
  • 敦盛。源平の合戦で捕まえた若すぎる武将を殺すのをためらってしまうが、その武将に「首を討て」と言われやむなく討つ。だが、それを悼んで、捕まえた側の武将も出家してしまう。敗者、弱者への共感の涙を日本の武士は持っていた。花は桜木、人は武士。
  • 武士道の最高の美徳として、「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」。市場経済による弱肉強食の世界においては、特に重要な徳目。弱いものを救うときには力を用いても良い。しかし、5つの禁じ手がある。
    1. 大きい者が小さい者をぶん殴らないこと。
    2. 大勢で1人をやっつけないこと。
    3. 男が女をぶん殴らないこと。
    4. 武器を手にしないこと。
    5. 相手が泣いたり謝ったりしたら、すぐにやめること。
  • 差別に対して欧米では「平等」という対抗軸を立てているが、日本は「惻隠」をもって応じた。弱者・敗者・虐げられた者への思いやり。人々に十分な惻隠の情があれば差別などはなくなり、従って平等も不要となる。北風をもって接するのではなく、太陽のように接すること。
▼教育勅語と修身
  • 日本人の心を培ったのは戦前の「修身」教育であり、「修身」の骨格をつくった「教育勅語」だった。心の教育があって初めて、相手への思いやりや礼儀正しさ、秩序を守る心などが育まれた。
  • 教育勅語で理想としたのは仁を理念にした「互譲」による秩序の形成。西洋諸国がやっている植民地支配という非人道的な支配ではない。

■英語について

  • 日本人の1割くらいの人が英語を知っていた方が便利だという理由で、日本全国の人が小学校から英語を覚えなければならないというのは、おかしな考え方。

■企業内教育について

▼責任枠制度
  • 個人の成長の責任を、本人だけでなく教育担当も持つ制度のこと。例えば誰かが失敗したときに、その本人でなく教育責任者の教育が責められることになる。「自分がよければ良い」っていう考えを持っている組織の意識を変えていくのには有効と思われる。
▼レビューの効用
  • ノウハウを引き継ぐための、ツーマンセル方式(OJT方式)。仕事の中で引き継いでいくためには、例えば提案などのタスクは1人でやった方が効率が良いかもしれないが、2人で行って話す内容等をシェアしながら育てるのも1つの方法。
  • レビューを実施する意味
    • 顧客システムの運用保守をしていく上で、常に達成すべき目標は「 (自責/他責問わず)障害件数を0にし業務影響を及ぼさないこと」。
    • そこを目指す中で、開発者個人でできることは開発者本人が、個人では担保できない部分はチーム全体が、チーム単位では担保できない部分はPJ全体として担保して、PJ全体で出荷責任を負っていく為に実施するのがレビュー。
    • よって、要件定義・設計・製造・テスト・出荷承認とフェーズは分かれるが、それぞれのレビューで担保すべき品質が定義され、レビューを行う毎にレビュー参加者全員の承認を持ってその品質が上がっていくのがあるべき姿ではないか。
  • レビューに期待できる効果(品質向上と、教育)
    • 【品質観点】レビューにおける品質向上は、質と量の両面から実現する。
      1. 質による品質向上
        • 業務知識を押さえているメンバや、他機能を押さえているメンバによるレビューを行うことで、業務/ソリューションの観点や機能としての影響範囲の考慮漏れ等を防ぎ、品質を向上させる。
      2. 量による品質向上
        • 業務やソリューションを押さえていなくとも、テスト観点やアルゴリズムの修正については経験等から指摘が可能であり、また開発者も説明している際に気づく考慮漏れ等がある為、そういった面の品質向上は量をこなすことで可能。
        • また、設計標準や開発標準に則っているかどうかは、現場のアプリ保守メンバーであれば誰でも確認できる為、相互のチェックによる品質向上は可能。
    • 【教育観点】レビュー対象物への品質向上とは別の観点として、「教育」という観点でもレビューは有効に活用できる。
      • 現状の実力ではレビュースキルとしては不充分なメンバに対しても、要件定義経緯やソースに対する疑問点を有識者にQAできる機会を作ることで貴重なケーススタディをすることが可能となり、レビューで指摘されやすいポイントを学んだり、より実践的なスキルを身につけていくことが可能になる。
  • レビューで担保する品質の定義
    • 現状は未定義。どのレビューでどこまでを担保していくのかを定義することで次フェーズのレビューで担保すべきポイントも明確になり、レビュー毎にレビューアに必要なスキルや用意すべき体制を洗い出すことができるようになる、はず。
    • テスト内容については、理想論で言えば改修時は「前回実施時の全テスト項目+今回発生したテスト項目」を網羅するのが一番良いと思いますが、QCDのバランスを取って進めることが必要とされる為、テストしていない項目が出てくることは容易に予想できる。
    • その場合は、CDのQに与える影響(リスク)についてチーム内と、必要であれば顧客合意を取るプロセスを踏むべき(当然だ)。また、各レビューで担保されるべき品質レベルについては全チーム同一基準で定義すべきと思いますが、レビューの方法(回数や実施体制)については各チームそれぞれ成熟度や要員スキルも異なるのでそれぞれの事情に合わせて決めてもらって構わないのでは(※ガイドラインやケーススタディ資料は作っておくこと)。
  • 今後想定される事態
    • 体制縮小は継続して発生し続ける。その中でチームメンバに求められるのは各々の専門分野を持った縦割り組織ではなく、それぞれのメンバが複数領域を押さえていくような動きであり、そのような体制縮小に強い体制を築いていく為にもレビューの機会を"より効率的に"活かしていくことが求められている。
▼引き継ぎ(業務を受け渡す教育の場として)
  • 大きな石(意志)は最初にしか入らない。最初に何を伝えるかは、考えておくこと。
▼教育レベルと効果
  • 教育や規律は最下層のレベルの人間から育てていくべき。最下層のレベルで教育レベルや規律レベルは見比べられることを認識しておくこと。
  • 活力を与える人間は、組織の学習に並外れて好ましい影響を与えるが、活力を奪う人間の専門知識は、いかに有益なものでも活用されないまま終わることが多い。

■継承する

  • 自分たちだけが良ければいいんじゃない。その時なんとかなれば終わりじゃない。過去の人達が継承してくれているから、電気もあったり、車があったりしている。未来に継承するためにも、自分たちのしてきたことや、その中での失敗、得た学びの記録を取っておかなければならない。楽しいだけで終わっちゃいけない。未来に継承するために、普通なら目に見えないものを残していこう。今はまだ出会えていない誰かのために。
  • 高等師範などは、4年経てば業は終わるのです。ところが、岩壁を掘って、一つの坑道を切り開くということになりますと、それはまさに終生の事業と言ってよいでしょう。が同時にまたかように、1人の人間がその生涯をかけて切り開いた道というものは、単にその人1人にとどまることなく、後からくる幾多の人々がその恩恵に浴するのであります。
  • 憲法は民のため。百年先の国のため。王のために書くものではない。国家が喪に服す時、王位継承はリスクをはらむ。即位は皆が揃って祝えるときが好ましい。

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