2011年8月12日金曜日

国立市の話

■国立市のおもしろスポットについて

■国立市のお店について

  • 概観
    • 国立には、地中海料理やフランス料理の店が七、八軒あり、どこの店もかなり水準が高い。青山や六本木に店を出していた人が、あちらを引き払って国立へ開店したからで、土地代が安いぶん料理が安い。青山、六本木料金のほぼ半額で、味は上等だ。
  • ル・ヴァン・ド・ヴェール
    • 隠れ家的ないい雰囲気のカフェ
  • プチアンジュ
    • 国立市役所の近くの、お客さんで賑わっているパン屋さん。
  • old cafe ときの木
    • まるで昔からずっと、この街にあったような雰囲気。国立駅南口から徒歩5分ほど、中村温思さんと杉田屋朋子さんの2人が営むのが「old cafe ときの木」。お客さんにここでいろいろな「とき」を過ごしてもらって、お店も成長していく。名前にはそんな想いを込めている。
    • old cafeというのは造語で、古いカフェ、まさに喫茶店の意味。
  • たいやきや ゆい
  • すかいらーく
    • すかいらーくでは車の保有率が高く、子育て中心の専業主婦が多い。しかも大学の進出が予想される。そういう所では、気軽な値段で食事が楽しめるアメリカンスタイルの郊外型レストランが必要だ。郊外型レストランの成否を問うのは、多摩が一番と昭和45年に国立に第一号店を作り、その試みは成功している。
  • ワインバル  うららか くにたち

■国立市の地域づくりについて

  • 開発前
    • 国立市は、大きく分けると江戸時代から続く谷保村と、大正時代に開発された国立市街によって構成されている。谷保に住むのが旧住人、国立に住むのが新住人。旧住人は江戸時代から将軍さまの天領でお蔵米を作っていたという自負があるため、決して「徳川が負けた」とは言わない。「瓦解した」といって、明治の新政府を喜ばないところがあったそうな。新撰組が出たり、自由民権運動が盛んだったのはそういう背景もあるはず。旧住民には反骨精神があった。
  • 国立計画
    • 1924年の夏。堤康次郎たちは山林100万坪の買収計画を説明。1反(300坪)当たり千円という金額を提示した。当時は1反100円から200円が相場で、破格の高値だった。康次郎には夢があった。広大な山林を切り開き、ドイツのハイデルベルクのような「学園都市」に整備する壮大な計画である。「父にそれを勧めたのは大隈重信だったよう。『欧州には学園都市がたくさんある。君はまだ若いのだから一つ考えてはどうか』と。あちこち土地を探した結果、たどりついたのが国立だった。
    • 国立を開発した西武グループの堤康次郎さんは、滑走路もかくやと思われるこの通りに本当に飛行機を着陸させようとした。でも、中間点の今の富士見団地があるあたり、そこは桑畑だったのですがそこに高圧線が通っていて、実現しなかった。それでもなんとか国立に飛行機をと思ったのかもしれません。飛行機は貨車で運ばれてきて、町の中に飾られました。今の「ロージナ茶房」の裏あたりです。
    • 谷保と国立市街は東京新百景にも選ばれた広い大学通り(三十間道路と言われていた)でつながっている。西武グループの創立者の堤康次郎さんが作ったもので、当初は甲州街道まで真っすぐにつなげる予定だったが、それをよしとしない谷保の源五郎という男が土地を売ることを頑として拒んだ。そのため、真っすぐのはずの道が一ヶ所、右に曲がり左に曲がって谷保天満宮につながる。土地の人はその曲がり角をゲンゴロウ曲がりと称していた。
    • 国立は、ドイツの学園都市ゲッチンゲンをモデルにした。国立とは、国分寺と立川の中間であることから、双方の1字ずつをとったものと考えられているが、単にそれだけではなく、自称名付け親の堤康次郎によれば、「新しい日本という国が、ここから生まれるという意気込みで名をつけた」ということである。
    • 以前、国立駅の三角屋根の駅舎の色が突然塗り替えられました。レンガ色からケバケバしい赤に。そのときも国立住人は猛反発しました。三角屋根は元のレンガ色に戻りました。
  • くにたちSTYLEという地域ブランド
  • 喫茶店文化
    • 「文教都市・国立」の顔とも言える存在の喫茶店。国立駅前の一角に隣り合う「邪宗門」と「ロージナ茶房」はその代表格として市民に愛されてきた。国立市内の喫茶店は皆仲が良い。お互いに客を引き合い分け合いっこして商売は成り立っている。自分らしさを出せば共存共栄できるんですね。
    • 「『邪宗門』の屋号を持つには条件がある」。一つは、儲からないこと。もう一つが、マスターは手品師である、ということ。
    • ロージナ茶房は現在、国立で最も古い喫茶店だ。創業は54(昭和29)年。「ロージナ」とはロシア語で「祖国」や「大地」を表す言葉で、それに「路地裏」を掛けたらしい。画家であり、旅行家であり、骨董などにも造詣が深かったマスターの接さんは、政治家や学者、芸術家との多彩な交流があった。丈衛さん(接さんの次男)の小学生時代、父親は喫茶店を家族や従業員に任せ、一年の半分は海外に出ていた。世界中の港を訪ねてカメラに収めたり、大学の先生と中近東を調べて回ったり、共産主義者の芸術家の集まりに顔を出してみたり―。だが、そんな生き方が人々を引きつけてやまなかった。
  • LINEによる情報発信
    • 情報発信の手段は多く持っていることが望ましい。その中で、LINEが若者を中心にその親世代を巻き込み急速に利用者を拡大している点、またプッシュ通知によって、情報を迅速・確実に届けられるという点に注目し、災害などの緊急時の情報発信に有効。
    • アカウント名は@city_kunitachi。 
  • 桜のトンネル
    • 国立駅南口の大学通りにある、およそ1.3km続く桜のトンネルは市民によって1933年に約170本(ちなみにいちょうの木は約120本)植えられており、季節折々の風景が広がります。その景観を守るため、都市景観形成条例の重点地区に指定されています。高齢になった桜を守るため、市民と行政によるボランティア活動が始まっています。
    • 国立市HP「くにたち桜守

■国立市が舞台の作品


■国立市の大学

  • 一橋大学
    • 1923年の関東大震災で校舎が倒壊した東京商科大学(現在、一橋大学)は、1927年に国立市に移転。それを機に国立市は、大学の校舎を中心に据えた学園都市として開発された。

■国立の農業について

  • 谷保の水は飲み水には適しているが冷たすぎて稲作には向かない。その代わり、昔は山葵田があっちこっちにあった。稲作に向かないといって指をくわえていたら天領が泣く。そこで昔は、「米池」をあっちこっちに作っていた。池といっても川です。湧き水をゆったりした勾配のゆるい川に流すことで水温を上げて稲作用にした。

■国立の有名人について

▼山口瞳
  • 山口瞳と関頑亭。二人で街を歩いた。ツリガネニンジンソウの揺れる土手。一橋大の松林に落ちる夕日。行きつけの飲み屋に集う人々。谷保天満宮の由来―。その見聞をもとに小説『わが町』は生まれる。以来、「なんじゃもんじゃ」「迷惑旅行」といった紀行文に「ドスト氏」は欠かせない存在になった。
  • 「文蔵さんのこと、書いてみたいんだけど」。JR谷保駅前で居酒屋「文蔵」を営む八木方敏さんに山口瞳が声をかけたのは79年夏のことだった。山口は旅の友だった木彫家関頑亭さんに連れられて来て以来、常連になっていた。当時、ある雑誌に連載小説を頼まれたが、準備期間が1ヶ月しかなかった。家に近いこの店に毎晩飲みに行き、客の言葉を記録して日記風の小説が書けないかと考えたのだ。こうして『居酒屋兆治』は生まれた。高倉健や渡辺謙主演で映画やテレビドラマにもなり、最も名の知れた山口作品である。
    ~五時になった。兆治は、そろそろ縄暖簾をおろし、赤提灯をさげ、灯をいれようかと思った(略)一日に、二万円の売り上げがあればいいと思っていた。それ以上、欲をだすと、ロクなことはない。赤提灯で終わりたいと思っていた。~
    兆治のモデルになった八木さんが国立駅前で人気のあった屋台「まっちゃん」で修行して始めたのがこの店だ。居酒屋「文蔵」をモデルにした小説に、山口瞳はなぜ「兆治」と名付けたのだろうか。「当時、まさかり投法で有名だったロッテの村田兆治が念頭にあったようです」と、店主の八木さんはいう。速い速球で真っ向勝負する村田投手に山口は引かれていたらしい。
  • 居酒屋兆治は映画のロケ地は函館だったが、テレビの方は国立で撮影された。小料理屋の2階を借りて行われた宴会シーンの撮影。旅の友だった頑亭さんをはじめ、山口を知る町内の人たちがこぞってエキストラ出演した。八木さんもその中にいた。宴会に集まった客の役でセリフは一言もない。それでも撮影中は緊張のしっぱなしだった。
  • 生きてるうちのこういう時間が幸せなのかも知れないと思う。そして酒の最高のつまみは、人だってことをぼんやりと思う。
  • 山口瞳の「子分」を自認する嵐山さんは、国立が好きな理由のひとつに「学校」を挙げる。学生がたくさんいる。安い食べ物屋がある。どこからともなくブラスバンドの音が聞こえてくる。街に青春があふれているという。「青臭いところもあるが、心は穏やかで、清潔感があり、歩いていて安心する。一言でいうと、貧乏だけど、ココロザシがある街なんです」
  • 「国立で一番背の高い木にしたいんだ」。生前、山口が話していた庭のミズキは今、13メートルの高さに育った。「夏になると白い細かな花をつけるんですよ」と治子さんがほほえむ。
▼森重 樹一
  • 日本のミュージシャン。ロックバンド、ZIGGYのボーカリスト。東京都国立市出身。早稲田大学第一文学部哲学科卒。

■国立の見どころについて

▼谷保天満宮
  • 湯島、亀戸とともに「関東の三天神」と呼ばれる谷保天満宮には1100年の歴史がある。菅原道真の三男道武は父の大宰府左遷に伴い、武蔵国に流された。そこで父の死を知り、祠を祭ったのが始まりとされる。その道武の子孫が津戸姓を名乗り、天満宮を守ってきた。現宮司の津戸最さんで64代目になる。
  • 「きわめて野暮なこと」を意味する「野暮天」の語源にもなった。その昔、喜捨を得て神社の財源にあてようと盛り場だった江戸の目白にご神体を持ち込み、ご開帳をしたことがあった。それが10月(神無月)だったことから、「谷保の天神様は何とヤボな」と皮肉られたのだ。
  • 「その逸話が示すように谷保の読みは『やぼ』が正しい。それがいつのまにか駅名も地名も『やほ』になった。『やほてんまんぐう』じゃ力が入りませんよ」と津戸さんは笑う。
  • 谷保といえば、なんといっても有名なのが谷保天満宮です。ここの別当寺を昔は梅香山松寿西院安楽寺と言ったので、東院はどこだろうと調べてみたら、江東区の亀戸天満宮にありました。江戸の人は、日帰りならば亀戸天満宮、一泊ならば谷保天満宮にやって来たようです。
▼多摩蘭坂
  • 建築材料を積んだリヤカーを自転車でひいて得意先を回った。遠く青梅にも得意先はいたが、隣町の国分寺にはいなかった。多摩蘭坂のせいだ。国立と国分寺を分かつ、この坂は傾斜がきつく「たまらん、たまらん」と言っていたのがその名の由来とも言われる。
  • 国立生まれの忌野清志郎さんも「多摩欄坂」を歌ってます。

■国立市の団体

■国立市の企業


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