2012年6月9日土曜日

家族や仲間の総幸福度

致知のメルマガで紹介されていた話で、最近考えてたことにしっくりくるようないいなと思った話があったので転載。

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日本国家を一つの家としよう。国家リーダーはこの家の家長である。

まず家族には体が大きい子、小さい子、元気な子、ひ弱な子、頭のいい子、悪い子……
いろいろな子供がいるが、そのすべての存在を慮るのが家長の役目である。

例えて言うなら、被災地は大けがをした子供だ。
ダラダラ血を流しながら助けを求めている子供を放置したり、
「助けてやりたいけれどなぁ、お父ちゃん、お金がないんだよ」と言うのは、立派な家長ではないだろう。

同じく、財政に苦しんでいる地方自治体はガリガリに痩せ細った子供といえる。
長男の東京君や続く名古屋君、大阪君は最初にたくさんの栄養をもらい、成長の基盤を整えてもらった。次は地方へという段階になって政策を転換し、「公共投資は無駄」、「コンクリートから人へ」などと言い始めた。揚げ句、費用対効果を持ち出し「地方に新幹線を引いても、利用者が少ないから利益が出ない」などと言う。

小さな子供が「寒い、寒い」と泣いているのに「おまえなんかに金をかけるより、できのいい東京君に使ったほうがましだ」と言って、服を着せてやらないのと同じで、慮りのかけらもない。
家族を慮り、先の子々孫々を思い、そして一族の繁栄を願う。
そのベースがあって、ご近所から一目置かれる存在となるのが立派な家長というものだ。

盗人猛々しいお隣が、ある日突然「ここは俺のうちの敷地だ」と言い始めて、
子供たちが「怖いよ、怖いよ」と言っているのに、盗人の機嫌を取る家長は立派だといえるのか。

国家リーダーは国の家長。
そういう視点でいまの日本の家長を見ると失格だと断ぜざるを得ない。
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確かに、そう考えるとわかりやすいし、
家長にあたる人たちに果たしてそういう視点があるのかは
疑問かなと思いました。
 
と同時に、自分は家族に対してどうなのかなと。
ブータンでは、国民総幸福度っていうモノサシがあるそうですね。
どれだけ儲かっているかとか、
どれだけ効率がいいかとかそういうことじゃなくて、みんながどれだけ幸せか。
 
これ本当にいいなと思います。
僕には自分が支える家族はいないけれど、自分が一員となっている家族はいる。
血はつながっていないけれど、仲間に入れてくれている人たちがいる。
 
そういった自分のつながりのある人たちの、総幸福度はどのくらいだろう。
そこに対して、みんなが幸せになれるようなことで自分にすぐにできることなのに
してないこと、見て見ぬフリをしてしまっていることがどのくらいあるだろう。
小さい枠組みでいいから、その中での幸福度をもっともっと上げていきたいなと。
 
そういう生き方をしたいと思うし、それができて初めて、他の人にも
「こうした方がいいんじゃない?」って事例を持って提案できるようにもなるんじゃないかなと。
そんな風に思ったのでした。

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